日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

『奇想の前提』終演

・いろいろな方から「この発想はどこから思いついたのですか?」と聞かれるのだが記憶にない。もともとは乱歩と正史の書いた事件がすべて現実だった世界の話を想定していたのだが、そのふたりを結ぶものは歴史的事実は別としてきわめて個人的な思い入れによるものなので、考え直して乱歩だけにした。本当なら乱歩、正史だけでなく「探偵小説」に登場するすべての人々、事件が現実であった世界を描いてみたいところだ。『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』の探偵小説版。あの名探偵も犯罪者たちもすべて存在する世界……とまあ、発想の源は言うなればアメコミである。自分の脳内では改心した人間豹、あるいは彼の血族が闇の世界でヒーローをやっていることになっていた。あの怪人のバックボーンをアメコミ的想像力で考えるのはさぞやたのしい作業であろうと思う。
・『パノラマ島綺談』に描かれた世界が現実に起きたとしたら、事件は世界的に有名になっているだろうし、その場も注目されているだろうし、あんなことが起きた後なら「呪われた場所」になっているだろうし、関わった一族もまた呪われた人々になっているだろう……と考えていけばあのようになる。多くの方に乱歩だけでなく正史の影響を指摘された。母親世代の三姉妹は正史の世界も構想に入れていたときの名残であるが(どこかの島で殺され損なった三姉妹)、『パノラマ島綺談』で描かれた事件が因縁になっていたり(『八つ墓村』における三十二人殺しのように)、親族会議で呼び戻され「なんで帰ってきたのだ」と指さされたり(『八つ墓村』における(ry)と、言われてみればたしかに影響大で、これは後で気づいた。それくらい横溝正史は自分の「血」になっている。
・意図的にちりばめたのは映像化作品からの影響である。二十面相が団一朗を名乗っているのは日テレ版『少年探偵団』(75)で団次郎(当時)が二十面相を演じていたからである。気球が出てくるのはCX版『怪人二十面相』(77)で内田勝正演じる二十面相が必ず気球で去るからだ。けれどラストが「お父さーん!」になるのははじめから意図していたことではなかった。本作の展開上、必然的にそこに行き着くのに途中で気づいたのだった。だから寺十さんはじめ、皆さんには特に『恐怖奇形人間』(69)のことは伝えなかった。伝えずともああなったのは、地に足が着いたオマージュになっていたからだと思う。『恐怖奇形人間』は異常で奇妙でおかしな映画だが、ただ笑い飛ばして済むだけの作品ではない。あのポテンシャルにこそ敬意を捧げたい。
・パノラマ島の位置関係は変えた。原作では絶海の孤島のように表現されているため、本土からは見えないか、見えてもひどく小さくなり、子どもだけで上陸するのはおそらく困難な場所にある。現実には見せることの出来ないパノラマ島の存在感を舞台上に現出させるためには、登場人物に「見る」という行為をさせる必要があった。「思う」では表現できない、「見る」でなければダメなのだ。また子どもたちにも過去においてあの島に上陸している因縁が必要だった。郷愁と恐怖と憧憬が入り交じった複雑な場所。パノラマ島を現実に着地させるための配慮だが、劇作の都合と誹られようと、これはこれで良かったと思っている。台本にはそこらへんを説明した箇所を足していたが、稽古の最終段階で「不要」と判断し、作品からは削った。それは販売用台本ではお読みいただくことが出来る。この世界において松本清張の『ミステリーの系譜』はもう一章多いのだった。
・書きながら、筆の先で現実と虚構が闘っているような感じだった。パノラマ島は経済の論理に組み込まれ、『孤島の鬼』で起きた出来事は人権教育の一環とされている。一方で『猟奇の果』の人体改造術は生き延び、二十面相は暗躍している。災害という現実の最たるものに襲われたパノラマ島には百年ぶりの大虚構たる人間花火が上がる。この対決は書いていてたのしかった。作品のテーマは相対するふたつの価値観、その狭間で生きる人々だったが、書いている自分もまさにそのような状況だった。作品がメタフィクショナルな構造になるのは必然と言えた。
・かくも荒唐無稽な話に真摯に取り組んでくれたスタッフ、キャストの皆さんには感謝しかない。そしてこの奇妙な作品を支持してくださったお客様にも心から感謝いたします。ありがとうございました。