日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

ことし

・ほんと年に二度くらいしか更新しなくなってしまった。つうか公演前と年末にならないと思い出さない、もはやこのブログ。動物自殺倶楽部については触れてもないし。

・今年は動物自殺倶楽部にはじまり、動物自殺倶楽部に終わった。一月と十二月ですから。『バロック』は再演だから、新作は動物でしか発表していない。顕史郎さんとハマカワから鵺的と動物自殺倶楽部の違いについて意見を聞かされ、顕史郎さんは「(動物は)高木さんが若い人と組めばそれで良いんだと思いました」と言い、ハマカワは「ブランキーとシャーベッツの違いではないか」と言う。どちらも当たっている。鈴木慶一さんが自分より若い人たちと組んでコントロヴァーシャル・スパークを始めたのは意識していた。不断の自己改革の念がなければできないことで、慶一さん素敵だなと思ったのである。あの人は一生「ラク」をしないつもりだ。本当に素晴らしい。実はもうひとり意識した方がいるのだが、いろいろあってここには書けない。常に自分よりも若い脚本家と組み、最期までブレずに現役だった、ある映画監督である。

・鵺的が港に停泊しているあいだに、行き損なった場所や、再訪してみたい場所へ、赤猫座につきあってもらい、小舟に乗って出かける……というくらいのイメージではじめた動物自殺倶楽部だが、『恋愛論』『バロック【再演】』を経て、『凪の果て』でたどり着いたのは、昔なじみの場所だった。顕史郎さんや入江信吾君からは「高木さんが帰ってきた」と言われ、複数の方から「『暗黒地帯』を思い出した」と言われた。そうか、ここだったか……と自分で自分を再発見した。すべて無意識に任せているから、したことの意味はあとになってからわかることが多い。平山君や加藤さんと航海していたころは手探りで不安な旅路だったが、奥野さんや福永さんたちとの航海で経験値も上がり、新たなメンバーとともに向かう先はどこなのか。旅の仲間が変われば、旅の目的も変わる。なんとなく見えていたものが、いまならわかる。あらためて初期の旅路を辿ることを志向していたのだと、いまならわかる。『凪の果て』が他ならぬ雑遊で上演された意味も、いまならわかる。鵺的では作風としてしか辿りなおせない道でも、動物ならば公演規模から辿りなおせる。『恋愛論』は鵺的と動物自殺倶楽部のバイパス工事のような芝居だった。あれがあるから道がひとつにつながった。「辿りなおすこと」「回帰すること」「見つめなおすこと」がこの先の一貫したテーマであることがわかった。

・動物自殺倶楽部では現在の鵺的のラインに乗せられない過去作も再演していきたいと思っている。たまにしかやらないユニットなので、来年の公演はない。次はおそらく再来年になると思う。赤猫座も都合があるので、次の次はかなり先になるだろう。次は「あれ」をやりたいと、赤猫座には話をした。

・鵺的の次回三月公演は『デラシネ』である。脚本家が脚本家の芝居を書く。自分の出生にまつわる話も当然のごとく盛り込む。自己模倣や主題の反復を、いつの頃からかおそれなくなった。それは書こうとして書くものではなく、勝手に書いてしまうものだとわかったからだ。旅はつづく。来年もよろしくお願いいたします。