日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

妬心

佐藤優の「国家の罠」に出てくる鈴木宗男の人物評は、自身妬心が希薄なので他人の妬心に気づかないというものだが、それを読んでハッとしたのは自分自身妬心が希薄な人間だったからである。他人が妬ましいとか羨ましいとか思ったこともない。ところがそんな自分のような人間にも嫉妬を感じるらしい人間がたまにおり、俺なんぞに嫉妬するなんてずいぶん器が小さくねえか? と思ったりもするのだが、とにかく嫉妬されるほどの人間だとは自覚していないから、されたときには驚く。中学生の頃、帰途が三人になったときがあった。ひとりは友人、もうひとりはただの級友である。当然仲が良いのは友人の方だから話はそちらで弾む。友人の方が方向違いで別れ、ただの級友とふたりになったときに、そいつが突然自分を殴ってこう言った。「友だち甲斐のない奴だな」。びっくりである。友だちだと思ってないのだから当然だが、その当然が面白くなかったらしい。これを嫉妬という。だが嫉妬されても困るのである。愛情も友情もないのだから、よこせと言われても与えるものがない。ないから面白くないのだろうが、ないものはないのである。不毛だ。要は奴も奴の友人を作ればいいだけのことで、それをこちらにもとめてくるから無様になる。恋愛も同様である。
・なんでこんなことを書いているかというと、この事件について考えていたからで、よくある情痴事件と言ってしまえばそれまでだが、自身の負の感情に耐えられない人間は男女を問わず年々歳々増えているように感じる。ネット上にもあられもない嫉妬ややっかみが飛び交っている。表現する前に反芻しろ、行動する前に立ち止まれ。それでも妬心がおさまらないような人物は敬遠するが良い。傷つけられたり、大事な人が殺されたりしてからではすべてが遅い。