日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

この奇妙な明るさ

原発事故の状況が一向に改善されず、ネット上ではやれ安全だと言う人びと(安全厨というらしい)と、やれ危険だという人びと(危険厨というらしい)のあいだで罵りあいが盛んである。あれで安全なわけはないし、危険の度合いは時、場所、個々人の場合による。要はこの先どうしたいのか、どう生きたいのかのヴィジョンによって身の処し方は異なるわけで、それを一様にとらえようとするからズレる、すれちがう。ちなみに自分は身寄りも妻子も恋人もなく、気にしてる野良猫がいるので、この場所にいる。恋愛も結婚もあきらめているし、生きることに格別の執着があるわけでもない。だからこうしているだけのことである。
・なんでも海外から見るとわれわれの「落ち着き」が異様に映るらしく、こんなことを書いてる方もいるのだが、自分が不安だからといって、一見落ち着いてるように見える人びとを狂信者呼ばわりとは笑止千万である。この種の差別意識は大衆蔑視の裏返しであり、この人が日ごろ人を、社会をどのように見ているかがよくわかる。この状況下で、だれもが不安でないわけがない。考えていないわけがない。人はいちいちそれをわかりやすく態度や素振りや表情で表現したりはしないものである。世界がそう見ているのだとしたら日本人が差別されているからで、その尻馬に乗るとはようするにこの人は日本人ではないのだろう。
・自分のまわりの人びとは疎開することなく東京に残っている。原発の話をしても、どこか明るく朗らかである。これはたしかにいったいなんなのだろうとは思う。前々回のエントリで、われわれは「死」に直面していると書いた。つまり彼らは「死」をそんなにおそれていないのだ。「安全デマ」も「危険デマ」も、人が皆「死にたくない」「生きたい」と思っているということを前提として発信されている。だがその前提がちがう人もいる。この奇妙な明るさの正体はたぶんそれだ。念のため、「死」をおそれ、疎開する人びとを貶める意図はいっさいない。いろいろな人がいる、ごくあたりまえのことを言いたいだけである。