日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

超直球『行旅死亡人』

シネマート新宿にて井土紀州監督作品『行旅死亡人』を見てきました。自分と同い年の同業者と言えば、黒田さん、倉田さん、大河内さんをはじめ、NAKA雅MURAさんや忘れちゃいけないいずみ吉紘さんなど、綺羅、星のごときありさまですが、井土さんには特に畏敬の念を抱いています。瀬々さんとの一連の作品はどれもこれも傑作で、それらに感心していた自分はプロデビュー未満でした。満員立見のユーロスペースで『百年の絶唱』に衝撃を受けたのを、きのうのことのように覚えています。
・『ラザロ』を経た井土さんが果たしてどんな作品を撮ったのか、興味津々で出かけたわけですが、各方面から「火サスだ」「清張だ」「二時間ドラマだ」と前評判を聞いており、しかもそれらがすべて肯定的な意味で使われていて、いったいどんなものなのやら、まずは見たうえで申せば、たしかにその通りでした。まさに肯定的な意味でその通りです。
・とにかく素晴らしいのは「通俗性」に正面から挑んで逃げていないことです。「ありがち」だの「クサい」だのと、誰もが通俗性を回避しようとしますが、結果、線の細い退屈な日常描写がひたすらつづくような青春ものが幅を利かせることになります。ここには線の太い人間描写と線の太い物語があります。通俗性は人間描写の普遍性に基づくからこそ通俗的なのであり、そこから逃げていては実は人間は描けないのです。言葉はすこし違いますが、自分がまだ駆け出しの頃、鶴田さんから「きみのシナリオは上品だが弱い、線が太く強くあってほしい、シナリオはもっと品がなくて良いのだ、下品も突き抜ければ下品でなくなる、『悪魔のいけにえ』は下品の極みだが、あそこまでいけば洗練の域に達している」と言われたことがあります。つまりはそういうことだと思います。『行旅死亡人』は通俗性に敢然と立ち向かい、それを超克しています。今日、非常に貴重な作品です。27日(金)まで。井土さんの作品はDVD化されないので、これを逃すとしばらく見られません。ぜひ劇場へ。
・ちなみに鶴田さんから上記のお言葉を頂戴して以降、自分も通俗性をおそれないようになりました。この作品などはまさにそうして書いています。井土さんには及びませんが、今後も自分なりの試行錯誤をつづけていくつもりです。