日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

『羆嵐』再読

終戦記念日だが打ち合わせ。三鷹は暑かった。
ツイッターのTLに三毛別羆事件の写真とされるものが流れてきて(無関係なものだった)、ひさびさに吉村昭の『羆嵐』(新潮社)が読みたくなり、kindle版で再読した。夢中になった。
吉村昭の筆致はほとんどホラーである。羆自体はほとんど登場させず、事件の悲惨さを端的な描写や台詞で冷徹に表現してみせる。最初に襲われた女を捜索隊が発見するくだり、

「少しだ」
 大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。
「少し?」
 区長が、たずねた。
「おっかあが、少しになっている」
 男が、口をゆがめた。
 区長たちは、雪の附着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。
吉村昭羆嵐』新潮社刊・kindle版より・以下引用元全て同じ)

 このあと彼らは頭蓋の一部と頭髪、片足の膝下部分しか残っていない遺体と対面することになるのだが、「少しだ」「少しになっている」という言葉がたまらなく怖い。あるいは男たちが羆に襲われる家の前に立つくだり。その周辺は嘘のように静謐だが、家の中で人が食われているらしい。

 区長は、こわばった顔を明景の家に向けたまま、
「今、中でクマが食ってる」
 と、抑揚のない声で答えた。
 (中略)
 突然、区長たちの肩がはずむように動いた。音がした。それは、なにか固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物をこまかく砕く音がきこえてきた。
 区長たちの顔が、ゆがんだ。音は、つづいている。それは、あきらかに羆が骨をかみくだいている音であった。

 恐怖の実体ではなく、恐怖する人びとの様子だけがつづられる。怖い。本当に怖い。
・けっきょく応援に来た近郊の人びとも警官たちも役に立たず、粗暴ゆえに忌み嫌われている羆撃ちの男に村の者たちはすべてを託すことになる。ここらへんは完全に活劇の構造だが、吉村昭の意図は当然活劇にはない。羆は斃されるが、物語の後味は苦く、虚無的である。
・これを読む誰もが「映画になる」と思うわけだが、いまのところテレビドラマにいちどなったきりで映画化はされていない。羆の表現がむずかしかったのだろうが、Jホラー的恐怖表現とCG技術を得た今日ならなんとかなりそうな気がする。『リメインズ』の羆は着ぐるみだったからなあ。
Wikipediaを見ていたら、ほかにも有名な羆事件があるのを知った。「石狩沼田幌新事件」と「福岡大学ワンダーフォーゲル同好会羆襲撃事件」。前者は老女が羆に咥えられ念仏を唱えながら連れ去られるとか(後日上半身だけ見つかる)、「俺が倒す」とひとり森の中に入った狩人が行方不明になり数日後に首だけ見つかるとか、神も仏もない気分にさせられる。後者もひどい事件だが、なにがひどいと言って、犠牲者たちは羆に食い殺されたのではなく「遊び」で殺されたということだ。残酷で理不尽だが相手は自然である。羆事件はどれもホラーだなと不謹慎なことを考えたのだった。