日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

ブログを書くということ

・自分のことや自作について語るモチベーションがさがってきて、ツイッターと連動させるままにここを放置しておいたのだが、気まぐれに再開するのは年を取ったからである。四十六歳、二十歳の頃はついこないだのようだが二十六年前、二十六年後は七十二歳、つまりあっという間に死ぬ。すこしはあがいておかねばならぬ。ものを書いて生きているのなら、せめて文章で生きた証を。
・体調を崩してろくに芝居を観ることができない。備忘を兼ねて、乏しい機会に拝見したいくつかについて書いておく。
猫の会『クツシタの夜』は、地域猫活動に関わる夫婦と彼らを取りまく「世界」の終わりを描いた物語である。北村さんの作品を拝見するのは『漂流種子』につづいて二度目で、どちらも一見やさしい顔の芝居だが味は実に苦い。
因幡屋こと宮本起代子さんが「個々の場面のやりとりはおもしろいのだが、いくつもの場面、人々が連なってひとつの物語を形成しているという手ごたえには至らなかった」と批判的に書いておられたが、北村さんの作品において人物はつねに「点」であり、宮本さんの期待するような軌跡を描くことはない。自分はこれを劇作の不首尾ではなく北村さんの人生観、世界観の反映と見る。たぶん彼は物語も人の成長も信じていない。作品そのままに、彼はやさしい顔をして、きっと内には溶けることのない苦さを抱えている。
・そうした世界観を劇作も演出も正しく実現している。舞台いっぱいに脱ぎ散らかされた衣類が、芝居の終わりにむかうにしたがってかたづけられ、ついには整然とした素舞台になるという演出には哲学がある。元田さんはすぐれた仕事をされた。いつか拙作も演出していただけないだろうか。
『アルビノハニー』は、愛もなく複数の女性とつきあうサラリーマンと、先天的な遺伝子疾患を抱えた女子高生を軸に描いたあいかわらず救いのない物語。病的な浮気者の男も嫉妬が狂気の域に達する女も小西の分身で、ようするにこれは小西の内面の葛藤をかたちにしたものである。けっきょく自分自身を描いてぶれることはない。チラシの裏の拙文に偽りなし。
・いままでの作品も一見私演劇的であるが実はそうではなく、小西なりに虚構に昇華したものだった。現実、それも自身の経験に材を取ってだらしなくならないのは腕があるからだが、今回はよりいっそう虚構に踏みこんだものになっていて、これはおそらく小西に欲が出てきたからだと思う。身も蓋もなく言えば、もっと書きたくなったのだと思う。
アルビノという設定は消化しきれていないし、作品の焦点も絞りきれていない、北村さんの場合に反してこちらはもっと「物語」であった方が良い、つまりは決して成功作ではない。だが小西が小西自身を描いているかぎりほかに類はなく、「いま」「ここ」でしか観られない作品になっている。台詞も巧い。小西はやれる限り自作の上演をつづけた方が良い。彼自身が考えている以上に彼の作品をもとめる人々は潜在しているだろう。