日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

この家に生まれてよかった

・自分で自分のことを「すげえ」というのが苦手だ。芝居などというものをやっている以上、自分が作ったこの作品があなたにとっても価値があるということを喧伝しなければならない。こうした言葉がどうしても出てこず、要は自分の言葉はあくまでも作品を創るためにのみ有効で、営業用には生まれてこない。世の中にはアユム君や谷君のようにイヤミなく嘘をつかずクールでスマートにそれが出来る人たちもいて(二人とも、皮肉じゃないぜ)、彼らの言葉を目にするたびに感心し、かつうらやましいと思う。とどのつまりは自分に対する愛情の持ち方なのだろうが、ろくに人に愛されたことがなく、いまだに人に愛される価値がないと内心思っている自分には至難の業で、つねに「仕方なく書く」という後ろ向きさがつきまとう。
・他に仕事を四つ抱えながらの執筆で、稽古開始の一週間前になっても予想量の半分ほどしか上がっていなかった。開始直前の土日が奇跡的に空いたので、その二日間と開始当日の月曜日で完本した。書き上がったのが当日17時前である。プリントアウトに手間取って大遅刻したことはすでに書いた。それでも初日に台本があることは大事で、当然のことであると痛感したことも書いた。
・ここまではいつも通りである。駅前劇場初進出、新作を寺十さんに託すという意気込みはむろんあったが、執筆は平常心で挑んだ。俳優の演技に対する取り組みに似て、執筆も意気込むとむしろ失敗することが多いのを知っているからだ。じっさいいままでの拙作に比べてとりわけ『悪魔を汚せ』が突出しているとも思わない。ただ演出が自分でない分、いつもならやらないことを多々やっていることくらい……いずれにしても台本レベルの話である。
・これはどうもたいへんなことになっているのではないかと思われてきたのはラストシーンの稽古に到ったときである。その前にツイッターにも書いたことを少し詳しく書いておく。
・稽古が中盤にさしかかった頃、台本を少し直したくなった。ラストの一季と佐季の会話が単に善と悪との対決になっており、「家」というテーマが一貫していないように感じられたため、ふたりのやりとりのなかで佐季に「この家に生まれてよかった」と言わせたくなったのである。これを寺十さんに相談すると、寺十さんはわが意を得たりとばかりに微笑んで、
「それはね、演出でも考えてることがあるのでちょっと置いとこうか」
 そして、
「でも福永さんは(それを)わかって演ってるよね」
 と言った。自分は寺十さんにすべてをお任せすることにした。
・それであのラストシーンである。自分はつい泣いた。秋澤さんには横で見ていて高木さんが興奮しているのがわかったと言われた。福永さん自身が「化け物のような芝居が出来ました」とツイートした日である。
・正直、あんなに熱い場面として自分はあそこを書いていない。自分が演出するとしたら絶叫もさせないし、“Baby Now”のような音楽も流さないだろう。寺十さんは最初から「これは愛についての物語だ」と言っていた。あそこが慟哭の場面になったのは、演出と、それに応えた役者の力である。
・これが集団芸術なのだ。1×1が100にも1000にも10000にもなる。自分のホンがあって、寺十さんの演出があって、秋月三佳福永マリカがいて、すべてのキャストと音響照明美術があってあれが成立した。佐季のようなサイコパスに泣かされるなんてことがあるのかと作者自身も驚いたが、おなじ驚きにとらわれたお客様も多かっただろう。あの場面は理屈を超えている。
・会場で販売した台本は「自分から直したい」と言ったところのみを反映させたもので、寺十さんが演出で削ったり足したりしたところは反映されていない。ラストのあの台詞は上記のように自分と寺十さんの(そしてある意味福永さんとの)合作であるが、あれはあきらかに演出的な発想であったため、寺十さんに敬意を表して台本に書き込むことはしなかった。近く石澤知絵子さんによる台本写真集が作られることになっていて、さすがにそれではあの台詞を足したのだが、やはり文面だけだとどこかとってつけたようになってしまい、本番のあの力には及ばない。あれはまさに演劇の迫力、舞台芸術はここまでやれるのだという凄味そのものだった。
・そんな次第でこの作品について語ることを「苦手だ」などと言っていられなくなったのである。自分だけではなくキャストもスタッフも皆昂揚しており、作品の力を信じて疑っていなかったからだ。作者で主宰の自分が黙っているわけにはいかない。ぽつぽつと呟いたり、ブログやFacebookに思うところを書き連ねた。あなたがどう思われたかはわからないが、すべて実感、ひとつも嘘はない。いつもの心の持ちようとは違ったところでこの作品に対する愛情が生まれていた。作者であることを忘れて本作が気に入ってしまったのである。それが不様と笑わば笑え。自分は幸せだった。
・キャストは皆好演であったが、特に祁答院君、秋月さん、福永さんには感謝しておきたい。本作が成立したのは彼らが美しかったからだ。美しくなければ成立しない役というものはあり、あの三兄妹はまさにそうだった。呪われた家に咲いた妖花は人並みであってはならない。彼らは人並み外れた大輪の花だった。
・望外の好評でこの先どうしようかと頭が痛い。この公演を「事件にしたい」と言っていた奥野も加入一発目がこれで満足しただろう。いくつかの企画公演を経て、次回公演は来秋の予定。鵺的はまだまだつづく。どうかご期待ください。