日日鵺的(新)

演劇ユニット鵺的と動物自殺倶楽部主宰、脚本家の高木登が年に二、三回綴る日々

ストレンジャー彼女

・夜中に入稿できたので、tsumazuki no ishiストレンジャー彼女』のマチネへ。前川さんからソワレに誘っていただいてたのだが、この時点ですでに完売。ひと足お先に失礼しますと詫びのメールを入れて出かける。
・むかしむかし作協の新人シナリオコンクールで準佳作をいただいたとき、審査委員の田中陽造さんから「作品の器が大きくもなければ高くもない」と書かれ、爾来「器」というものにこだわっている。当時は器ってのがなんだかよくわからなかったのだが、のちに鶴田法男監督から「(作品の器の大小とは)そのへんの砂場なのか、国技館の土俵なのか」ということであると言われ、ああなるほどと合点がいった。要は作品を世に問う心構えの問題である。言わんとすることを伝えるだけの作品であるなら、それはそれだけのもの。だが作者の解答をたたきつけるのではなく、思うところを問うてみせれば作品の幅も奥行きも広がり、世界観は多様となる。気づいてからは仕事だろうと芝居だろうと必ずそうしている。そこからさきは技術論になる。
・で、なにが言いたいかというと、スエヒロさんの作品はやたらと器がでかいのである。どれくらいでかいかというと宇宙を内包するほどにでかい。これは冗談ではなく本当にそうである。器というものは厄介で、その大きさと難解さは比例する。つまり大きければ大きいほど難しくなり、小さければ小さいほどわかりやすくなる。作家はそのバランスをどこで取るかが勝負になるのだが、今回は大きすぎず小さすぎず、難しすぎずやさしすぎず、スエヒロさんの宇宙はそのままに、絶妙な均衡をもって作品が成立していて、それがえらく面白かったのだった。スエヒロさんの作品は何にも似ていない。先行する誰かの作風に類例はないし、真似をしようとする後続もいないし、そもそも真似ができない。唯一無比の貴重な才能である。まだ日曜まで公演があるので内容については書けないが、ああいう題材をああいうアプローチで描くことができるのはこの世でスエヒロさんだけだと思う。騙されたと思って観に行ってほしいです。あと寺十さんがけっこうがっつり出演されてるのと、福原冠くんが非常に良い芝居をしていたのがうれしかった。
・終演後に前川さんからメールが入っていて、マチネに来ている赤澤ムックさんとソワレを観に来る瀧川英次さんとで飲むから来ないかとのこと。これの顔合わせのようなもの。というか顔合わせで、前川さんの演助の小形知巳さんも合流して楽しく飲む。瀧川さんから先日のあがささんのリーディング公演で「高木さんの後ろの席でしたよ」と言われて驚く。全然気づかなかったよ! ムックさんのお話は多々面白かったが、差し障りがありすぎてここには書けぬ。前川さんはソワレが初見と思いきや初日を観ていたそうで、ひと足お先は先方だった。帰宅して沈没。起きたら日付が変わっていた。で、これを書いている。